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2007年11月27日

映画館にいきましょう!

映画館にいくとわくわくしますよね。

映画館(えいがかん)とは、映画を上映する事を主目的とした施設。日本語では「銀幕」あるいは「シネマ」とも通称される。英語でも同様にSilver screen(銀色のスクリーン)、Big screen(大きなスクリーン)と称され、テレビに対して使われるSmall screen(小さなスクリーン)と対照される。

映画は映写機により講堂の前に設置された大きなスクリーン(映写幕)に投影される。

映画館は、新作映画を全国規模で一斉に上映する封切館(ロードシアター)と、独立系の新作映画を上映するミニシアター、旧作映画を主体に上映する名画座に大きく区分される。また、映倫が定めるレイティングに従い、R-18指定の映画を中心に上映する映画館を「成人映画館」、それ以外の映画が主であるものを「一般映画館」と区分することもある。

封切館は大手映画会社によって築かれた全国規模のネットワークができており、テレビのネットワーク同様、原則としてネット元の映画会社が選択した映画を上映する映画館である。この場合、ある程度のヒットを想定している。

独立系映画会制作・輸入の新作映画など小規模での公開を前提とした映画を上映する映画館を「ミニシアター」、旧作映画を主体に上映する映画館を「名画座」と呼ぶ。名画座はレンタルビデオやDVDの普及により減少傾向にある。

1980年代後半以降、シネマコンプレックス(シネコン)と呼ばれる、複数スクリーンを持つ大型映画館が増えている。ショッピングモールなどと併設して郊外に建設されるケースが多い。

また、シネコン・ミニシアター共に午前中のみの上映(モーニングショー)や夜間上映(レイトショー)などで公開作品数を増やす試みが浸透している。

かつては映画館の名称が「○○劇場」「○○座」となっていたり、映画館自体を「劇場」と呼ぶ事も多かった。これは元々一部の大規模映画館では、映画興行の合間にアトラクションとして実演(歌手の歌謡ショーや演芸など)が催されていた事にもよる。従って、楽屋を備えた映画館もかつては存在した。
現在では、演劇の劇場との区別のためかほとんど用いられない。

映画館の設置にあたっては、興行場法に基づき都道府県知事の許可が必要となっている。

2007年現在、営業中の常設館として日本最古のものは新潟県上越市にある、明治44年(1911年)創業の「高田日活」で、現在使われている建物も創業当時のものである。
【ウィキペディアWikipediaより引用】

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2007年11月01日

花やしき行ってみたい!!

だいぶ昔からあるんですね。
新しいアトラクションも増えたみたいだし、いってみたいなぁ。

1853年に千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園した。当時の敷地面積は約80000m2であった。江戸期は茶人、俳人らの集会の場や大奥の女中らの憩いの場として利用された。

明治に入り浅草寺一帯を浅草公園地とした際、花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定された。しかし敷地は縮小し、1885年(明治18年)に木場の材木商・山本徳治郎(長谷川如是閑の父)とその長男・松之助が経営を引き継ぐ。翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示した。この頃でも利用者は主に上流階級者であり、園内は和洋折衷の自然庭園という感じであったが、徐々に庶民にも親しまれるようトラ、クマなど動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示したりした。浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、動物、見世物(活人形、マリオネット、ヤマガラの芸など)の展示、遊戯機器の設置を行うようになった。

大正から昭和初期には全国有数の動物園としても知られ、トラの五つ子誕生や日本初のライオンの赤ちゃん誕生などのニュースを生んだ。関東大震災の際は罹災民が集ったため、多くの動物を薬殺した。戦時下において徐々に規模を縮小し、まず1935年(昭和10年)に仙台市立動物園に動物を売却し、1942年(昭和17年)には強制疎開によりついに取り壊された。

戦時中松竹の関連会社となるが、戦後の1947年(昭和22年)東洋娯楽機との共同経営で再び開園し、遊園地「浅草花屋敷」と改名、2年後には東洋娯楽機に経営が委ねられ「浅草花やしき」と改名した。
そして1953年(昭和28年)のローラーコースター、1950年(昭和25年)のBeeタワーなど現在あるアトラクションが登場し始めた。

また花やしきは長らく入園料を取らず、利用する施設ごとに回数券などで料金を支払う形を取っていたが、1985年(昭和60年)の風営法改正に伴い回数券とは別に入園料の徴収を開始した。

2004年(平成16年)にトーゴ(旧・東洋娯楽機)が会社更生手続きの開始を申し立てたことにより、バンプレストの子会社、株式会社花やしきが8月31日にその事業を承継した。 2005年(平成17年) 芸能スクール、花やしきアクターズスタジオが開設される。 2007年(平成19年)3月10日には、10年ぶりの大型アトラクション「DISK-O」がオープンした。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』